第17図 図版14
第4節 7 号墓
墓は、調査区中央付近の丘陵下段に位置し、東隣に 6 号墓、西隣に 8 号墓が所在している。調査 前の状況は、墓口付近の崩落によって 2 m程の土砂で覆われていた。墓口は開いていて、汁ヒラシ には厚さ 1m 程の流入した土砂が堆積していたが、内部に蔵骨器が確認できた。この埋土からは、近 代磁器や戦争関連の遺物も出土している。
墓口の寸法は、幅 0.55 m、高さ 0.9 m、羨道の長さは 1.4 mで、方位は北(N1°E)を向く。調 査時には開口していたため、閉塞方法は不明であった。
墓室は、棚(コ字状)と汁ヒラシからなり、類型の 3 類 a に分類される。墓室平面形は横長の方形で、
幅 2.0 m、奥行き 1.5 m、高さ 1.4 mを測る。棚や汁ヒラシには 12 点の蔵骨器が安置されていて、
割れているものや蓋が落下しているものもみられたが、蔵骨器の正面を示すマド枠や屋門が墓口に向 けられていたことから、概ね原位置を保持しているものと判断された。なお、墓口の閉塞石が無いの は、戦時中に開口したものの何らかの理由で使用されず、その後爆撃等によって埋没したことが考え られた。
墓庭についてみると、左右非対称で非常に狭小な庭となっていて、平面形は三角形を呈している。
その原因は、前節で述べたように 6 号墓と 8 号墓の隙間に造られたことによるものと推察している。
一方、6 号墓と墓庭を共有していた可能性があることから親縁関係等も想像されたが、それを証明す る手掛かりは得られなかった。
墓の造営年代についても明らかにすることはできなかったが、蔵骨器の銘書の古い年代は「乾隆 22 年(1757 年)」で、新しいのは「同治 12 年(1873 年)」が確認され、少なくとも 19 世紀後半 頃までは墓が機能していたことが窺える。
図版 17 7 号墓の位置
第 21 図 7 号墓 平・断面、蔵骨器配置
破片
マド枠・屋門の向き ボージャー( )
マンガン( ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ )
破片一括取り上げ
S=1/60
3m 0
< 墓室横断面図 >
< 平面図 >
<縦断面図>
< 蔵骨器配置図 >
EL=106.000 m
EL=106.000m
図版 18 7 号墓 1段目左:掘削前の状況 右:墓口検出後 2段目左:掘削前の状況 右:墓室埋土除去後
3段目左:蔵骨器の安置状況(正面棚) 右:蔵骨器の安置状況(左棚)
4段目左:蔵骨器の安置状況(右棚) 右:完掘後
(蓋)①つまみ ②文様等 ③調整痕他 (身)①正面示形 ②文様等 ③調整痕他
100
マンガン釉甕形(身)-32.4 21.3
-①屋門:アーチ形貼付。
②横帯1・2不明、帯3凸3、帯4凹3、胴 部:沈線蓮文、屋門内貼付仏。胴下部:
沈線波状文2段、底面孔:三日月形13 個。
③外面:器面全体にナデ、底部付近~
腰部は横位のヘラ調整痕、内面:水挽 き。
墓室
№1
101
マンガン釉甕形(蓋)28.6 22.2 13.7 9.8
①有孔宝珠、つまみ台1段。
②鍔3.1cm、かえり3mm、外面体部から つまみ台にかけて、飛鉋。
③外面:水挽き後、横位の調整痕、内 面:体部ほぼ全面に水挽き、その後横 位の刷毛調整、天井部ヘラ削り、つま み:ヘラと刷毛調整痕。
咸豊元年亥七月…
日玉城筑親雲上洗 骨童名樽/咸豊十年 申七月二十八日玉 城筑親雲上女子骨 洗済童名うし
洗骨:1860 墓室
№2
102 図版19
マンガン釉甕形(身) Ⅲ 24.2-20.1 47.2
①屋門:アーチ形貼付。
②横帯凹2・凸1・凸3・凹2。肩部:沈線 波状文2段。胴部:貼付蓮華文(茎は沈 線)。腰部:波状沈線。底面孔:半月形5 個。
③外面:器面全体にナデ、腰部下ヘラ 削り。内面:水挽き。
1 女性 青年 墓室
№2